モノクロ写真館
monochrome photos
■中国の朋友■
正直言って、中国にはあまり惹かれていなかった。近くて、でかくて、猛烈な国―。それぐらいのイメージだった。
旅をしてみて、僕は中国が大好きになった。もちろん、予想にたがわぬ無茶苦茶ぶりに逐一腹を立て、本気のけんかをたくさんした。電車やバスでの傍若無人の振る舞い。いつも怒りに満ちた顔と声で切符を売る駅員。高圧的でエラソーでみじんも融通の利かない役人たち…。「こんなとんでもない国、今すぐなくなってしまえ!」。そう思ったこと数知れず。
だが、そんな負の印象をポーンとチャラにしてくれ、お釣りをくれるほどのでかくて深い温かさにも触れた。
そして、日々けんか腰で戦いながら生きる彼らの生命力には心底、恐れ入った。
中国の朋友 1
中国南部、チョワン自治区の柳州。
列車待ちのためこの町で一泊することになった。駅舎に併設の「火車賓 館」に荷を下ろし、駅前のメシ屋で晩飯。「苦瓜牛肉」が5元(=約75円)。それにビールを1本。
同席の若い男が、お椀に入った透明の酒を飲んでいた。数人連れ立って食事をするのが一般的な中国で、夜の安メシ屋でひとり酒を飲む男の姿は、寂しげに見える。
彼と話をした。 と言っても、中国語なので中身はほとんどわからない。 僕がおかずを差し出すと、彼も差し出し返す。互いのおかずをつつき合った。何かを言い終えては「朋友、朋友!」と言って握手を求めた。純粋に、どこか弱々しく笑う男だった。
お椀の酒を一口もらった。安酒なのだろうが香りが抜群にいい。焼酎のようでうまい。
中国の朋友 2
男は酒を数杯飲んだあたりから泥酔し、語気を強めて猛烈にしゃべり始めた。言葉を吐き出すと言った方がいい。ぶちまけたいことが胸の中に溜まっていたのだろう。相変わらず話の中身は不明だが、「今夜はこのにいちゃんの話、いや、『心の音』を聞くことにしよう」と思った。
1時間ほどして、彼はトイレに立った。そのまま5分、10分たっても戻ってこなかった。
「ん。どうやら俺、たかられたな」。まあ仕方ない。店員の女の子を呼び、勘定を求めると「さっきの男から、あんたの分ももらっよ」と言われた。
メシ屋からの帰り道、彼の姿があった。足元がおぼつかない彼は、セメントを載せた天秤棒を担ぐ男に向かって、言葉にならない大声を吐きながら、いつまでもからみ続けた。
中国の朋友 3
四川省成都からバスで8時間かけて山の中へ。四姑娘山(スークーニャンシャン、標高6,250m)という山に登るベースとなる村「日隆」へやって来た。
標高3,150mの山あいにポツンとある小さな村で、住民のほとんどはチベット系の人たち。子どももおばちゃんもおじちゃんも、リンゴのように赤いほっぺだ。
ストゥーパ(石の仏塔)や民家の屋根には、チベット仏教の仏具のひとつでタルチョと呼ばれる万国旗のような魔除け布がかけられていた。
早朝に成都を出発したときは半袖・半ズボンにサンダル履きだったのだが、昼下がりに到着した日隆では、厚手のシャツにフリースを着込むほどだった。
中国の朋友 4
日隆の村ではチベット人の姉妹が切り盛りする安宿に泊まった。1泊10元(=約150円)という安さ。中国人家族が2組泊まっていた。
初日の夜、テレビが置かれた居間で日記を書いていると、中国人家族の子どもが、ガヤガヤとやって来た。いたずら好きな男の子に、日本から携えていた風船をあげた。
しばらく後、「ザッツ・中国人かあちゃん」的に豪快ににぎやかなお母さんが息子を連れて、部屋までお礼を言いに来た。
翌朝、一足先に成都へと出発する男の子たちを見送り、写真をパチリ。
中国の朋友 5
この小さな民宿は、気のいいチベット人母子が切り盛りしていた。毎晩、夕飯は宿でこの母子に作ってもらって食べた。
ピーマン、木耳、ニンジン、カリフラワー、それにチベット風の麺をふんだんに使った炒め物が、食いきれないほど出てくる。冷え込む夜、トマト入りのあったかいスープがしみじみうまい。
ガツガツと食いながら、「ふたりは親子なんだよね?」と聞くと、母子は顔を見合わせてゲラゲラと大笑い。「この子はメイメイ(妹)よ」。あれ、すみません。。。
※写真はメイメイの方。
中国の朋友 6
日隆では、ひと騒ぎしでかした。
到着初日、長距離バスを降りて宿に入ってすぐ、財布やパスポートを入れたリュックをバスの車内に置き忘れたことに気づいた。バスはすでに終点の村へ向けて出発した後だ。
宿のおばちゃんたちに事情を話すと、その辺にいた人たちでワイワイと協議が始まり、言われた。「この男が『オレの車でバスを追っかけてやる。だから、200元(=約3000円)よこせ』と言ってる」
「高い」と思ったが、値切り交渉をしてる暇はない。即、おっちゃんの車に乗り込み「急いでくれ!」と急かした。すると、おっちゃんも「おっしゃ、田舎町で久々に燃える出来事だぜ」といった面持ち。まっすぐな悪人面にますます精気をみなぎらせ、崖を這ううねうねの山道を対向車お構いなしにビュンビュンと飛ばした。
始めは「リュックが戻ってきますように」と願っていた僕は、すぐに「無事に生きて帰れますように」と祈らざるを得なかった。
中国の朋友 7
くりくり坊主頭に、上半身裸。ワーワーわめきながら、おんぼろのちゃりんこをひたすら乗り回す。街角で出会った、正しい少年時代。
中国の朋友 8
日隆から半日の軽いトレッキングを終えて帰る山道で、肌寒い小雨の降る中、おじちゃんたちが道路工事をしていた。
「ニイハオ」と言うと、ニコッとしてこっち向き、中国語で色々話し掛けてきた。僕が持ち歩いていた会話帳を開いてあれこれ話す。
最後に「記念写真を撮らせて」と合図すると、道に散らばっていたみんなが集まってくれてた。
中国の朋友 9
日隆から成都に戻ってきた。
成都駅前の電話屋から、日隆の宿で知り合った中国人家族がくれた電話番号に電話してみた。おばちゃんが電話に出た。
「ああ、元気かい!? 成都に戻ったんだね? 何か困ったことはないかい?」
相手はほとんど中国語なので、僕は「イエス、イエス」と繰り返すのが精一杯。最後に、おばちゃんが何かを必死に言っているのだが、いまいちわからない。困った僕は、電話屋のおねえちゃんに身振りで助けを求めて受話器を渡した。おねえちゃんは僕のメモに、おばちゃんの言葉を書き留めてくれた。
「あなたの旅が愉快で安全なものになるよう祈っています」
それを必死で伝えようとしてくれていたのだ。
その少し下に、「中国は良い所です。また是非来てください。歓迎します」ともあった。
思いがけず贈られた温かい言葉にも、そして行きずりの旅人に親身にかかずらってくれた電話屋の子の行為にも、心が温められた。その子の写真を撮らせてもらい、礼を言って別れた。
宿に戻り、メモをよく読み返してみると、二つ目の言葉の下には電話屋の子の名前が小さく添えてあった。
中国の朋友 10
内モンゴルの都市フフホトから北京へ向かう夜行列車。隣りのコンパートメントの子は、13歳のきゃしゃな男の子。お母さんに「ほら、学校で習った英語で話し掛けなさいっ」と言われたその子は、僕と連れの韓国人に向けて一生懸命話す。
「あそこはブドウが名産品なんだよ」などと、僕がこれから向かうウイグルの見所をあまねく教えてくれた。
お金持ち家庭の子どものようで、デジカメに収めた旅の写真や動画を「どうだい」と自慢げな表情で見せてくれた。
中国の朋友 11
華南地方のローカル列車。夜9時過ぎ、成都へ向けて出発。隣りの子どもに到着時刻を聞くと、「朝の6時に着くよ」と言った。
「案外近いじゃん」と思いながら、木板の“硬座”の上で一晩眠る。
しかし、朝の6時になっても列車は一向に成都に着く様子はない。
もう一度聞き直してみると、どうやら「翌々日の朝6時に着く」ということだったようだ。いやはや、中国はでかい。
写真は、物売りから買ったひまわりの種を食う男。特にうまいわけではないが、葉でパチッと種を割る動作がやめられなくなった。
中国の朋友 12
すっかり巨大都会になった北京。まぁ、以前の北京は知らないのだが。
路地裏には、写真で見る「昭和の日本」のような生活があった。(終)