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アジア写真日記

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​明るく貧しい働きもの①

湖畔行きの乗り合いトラック

働く少年のたくましさ

 カンボジアのプルサットという町に来た。
 2日目の早朝、巨大な湖トンレサップ湖畔にある町へ日帰り旅行するため、乗合いトラック乗り場へ向かった。小さなバンや小型トラックが10台ほど停まっていた。近くにいたおじさんに「コンポンルオン行きはどれ?」と聞くと、そばにあった白いバンを指差した。

 出発は午前9時らしい。まだ2時間近くある。すでに2人のカンボジア人が車に乗り込み、席を確保していたが、僕はお茶でも飲もうと思い、市場へ向けて歩いた。
 しかし、なかなかお茶のできるところが見つからない。適当な軽食をとれる店もない。この間まで滞在していたベトナムに比べると、市場に並ぶ果物の種類もずいぶん少ないな、と感じる。
 しばらく歩き周ると、男どもがわんさか集っているカフェを見つけた。授業中の教室のように、みんな一様に店の奥の方を向いて座り、熱心にテレビドラマを見ている。僕もそこに混じって一服した。

 8時半に車へ戻ると、席は大方埋まっていた。車の助手を務めているのは、体格のいい元気な少年だった。額にアザのような赤い痕があるので、「どうしたの?」と聞くと、額を指でつまむ動作を繰り返して、「これこれ」と言った。頭痛を治すおまじないだろうか? 少年は、ダンボールやビニールで包まれたたくさんの荷物を、これでもかこれでもかと車内に詰め込んでいた。大人の運転手連中に混じってきびきび働くその姿は、「少年」ではなく、たくましいひとりの青年だった。

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​明るく貧しい働きもの②

戦乱逃れたベトナム人たち

掘っ立て小屋で酒盛り中

 満員の車に1時間ほど揺られ、コンポンルオンに着いた。
 細い運河沿いの平地に、木板でできた粗末な掘っ立て小屋が並んでいた。そのうしろに大きな湿地が広がっている。空はどこまでも広く、雨季のはじめの白い雲が、低い所を流れていた。
 あぁ、モンゴルの草原のようだなぁ、と思った。

 手漕ぎのボートを雇って、湖に浮かぶ水上集落へ行ってみた。漕いでくれたのは、道端で出会った13歳ぐらいのツッパリ少年。思いがけぬお小遣いにありついたせいか、終始上機嫌で、一生懸命漕いでくれた。
 湖岸から2キロほど沖へ出ると、プカプカと水に浮かぶ家々に近づいた。 小学校、電器屋、病院、酒屋、すべてプカプカと湖面に浮かんでいる。嵐の日は揺れに揺れて大変だろうなぁ、と余計な心配をしてしまう。
 ここにもちゃんと飼い犬たちがいて、白い大きめの犬が、ボートの周りをワサワサと泳ぎ周っていた。水上集落は、湖の水量によって、湖岸からの距離が遠い時で7キロにもなるそうだ。

 1時間ほどボートで周った後、湖岸へ引き返した。ボートを漕いでくれた少年にお金を払って散歩をしていると、掘っ立て小屋の中からベトナム語で呼び止められた。おじさんふたりが、板の上にあぐらをかいて酒を飲んでいた。「おい、酒を飲んでいきな」と手招きする。
 酒を飲みたい気分ではなかったが、話の輪におじゃました。
「どうして酒を飲まない!? 強くなれんぞ!」とふたりは怒ったように笑って言った。すでに酔っ払い状態のおじさんは、水上集落に住んでいて、今日はここへ遊びに来たのだそうだ。この小屋は、もうひとりのおじさんの家。奥さんと娘ふたりの4人家族だが、4人が寝るには窮屈そうな広さの小屋だ。
 奥さんが小屋の奥で横たわって、顔だけこっちにのぞかせていた。
「どうしたの? 眠いの?」と聞くと、「いいや、頭痛がひどいんだ」と旦那さんが答えた。
「薬は飲んだの?」
「いいや、薬を買うお金がない」

 

 この家族は、1979年にベトナム・メコンデルタのアン・ザン省からここへ移ってきた。カンボジアで暮らすベトナム人は多いが、このあたりは特に多いのだという。大部分は1970年後半から80年代にかけての混乱期に移り住んできたらしい。おじさんたちは、けっこうなハイペースで酒を飲みながら、自分の家族のことを切々と話し、僕の家族のことをあれこれ尋ねた。

 僕のベトナム語はすぐにいっぱいいっぱいにはなるが、「言葉を覚えてよかった」と思えるのは、こういう時だ。 通り過ぎ、すれ違っていくだけのはずの人と、もう少し踏み込んでお互いのことが知れる。値段交渉や宿の手配に使うだけの言葉では味気ない。

 「明日も来るのか?」と酔っ払いおじさんに聞かれたが、「他の町へ行くのでたぶん来ないよ」と答えると、「そうか」と言っておじさんは手を差し出した。がっちり握手をしてお別れした。
 僕はその足で、果物を売っていた屋台に向かい、栄養のつきそうな果物を買って、もう一度おじさんの小屋へ戻ってそれを手渡した。夕方になる前に、宿をとっているプルサットへ戻った。

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​明るく貧しい働きもの③

物も金も情報もない一生

豊かさの「物差し」とは

 翌朝、もう1度コンポンルオンに行きたくなり、予定を変更。再びトラック乗り場へ向かった。乗り場には、昨日と同じバンが待機していた。これまた昨日と同じ助手少年が「あら!? また行くの?」という顔をして寄って来た。少年はなぜか空手の型を繰り出してくる。僕も、やったこともない空手のポーズを「師匠」ぶって披露した。
 少年は汗だくだった昨日とまったく同じ服装で、まったく同じようにきびきびと働いていた。凛々しい青年の瞬間だ。

 かと思うと、仕事の合間には、顔見知りの子たちとワイワイじゃれ合っている。きっと両方ともこの子の素顔なんだろう。

 

 コンポンルオンに到着し、昨日のベトナム人一家の小屋へ寄った。今日は旦那さんひとりしかいない。
「奥さんは?」
「今日は働いている」
「え!? 病気は良くなったの?」
「ああ、大丈夫だ」
 ほんとかなぁ、と思ったが、旦那さんの顔も明るかったので、しばらく話をしてから「それじゃ」と言って別れた。

 運河の岸に繋がれた小船の上で、助手少年とまたもや出くわした。
「あれ!? 車の仕事は?」と尋ねたが、少年は言葉がよくわからなかったようで、「おう、おう」と言って手を上げ、2人の乗船客を乗せてへ出て行った。どうやら、帰りの車が出発するまでは、小船の船頭として働いている様子だった。小さな体を懸命に使って働く姿は、なんとも気持ちがいい。

 昨日はバイクタクシーを使った帰り道を、今日は途中までゆっくりと歩いてみた。掘っ立て小屋や、高床式の住居が続く。どの家も、ひと言で言ってしまえば「貧しい」。家財道具など一切ない。鍋とコンロと水がめが置いてあるぐらい。食事のバリエーションもごくごく限られたもの。
 物がない。お金がない。娯楽がない。情報がない。町じゅう部屋じゅう物に溢れ、娯楽に溢れ、情報に溢れている日本から見ると、本当に別世界だなぁと感じる。生命を保つこと、その日の糧を得ることのみに肉体を使う生活は、豊かな日本ではすでに薄まってしまったものだろう。
 しかし、貧しいはずの人たちがみんな明るく元気なのには、いつも考えさせられる。プレイステーションがなくても、次世代携帯がなくても、格安航空券で世界のあちこちを周らなくても、あれだけ飛び切りの笑顔で生活できる。人間が本能的な“生”の喜びを得るために必要なものは、きっとずっと少なくていいんだろう。
 僕自身が今さら「文明の利器とはおさらば」というような暮らしができるとは思わない。ただ、時折目の当たりにできる、こうした“生”の場面から教えられることは多い。

 沿道のあちこちで、炭火のコンロから出た白い煙が上がっていた。今日もゆっくり日が暮れていく。コンポンルオンの夕飯時だ。(終)
 

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