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アンカー(1)

​旅のはじまり

~明日はどっちだ!? 「旅スズメ生活」突入物語~

(1)自分だけの合言葉

ビールグラス

 「20代のうちは好きなことやろうや」が合言葉だった。
 分かれ道に立った時、あれこれ考えを巡らせはするが、最後に自分の背中を押すのはこんな言葉。もっとも、これは僕ひとりの合言葉だったのだけれど。

 学生時代に僕はよく、西宮にある友人の実家へ遊びに行った。気心の知れた友達数人と連れ立って押しかけることが多かった。
 夜になると酒を飲みながら、いろいろなことを話した。大学生活のこと、恋愛話、将来のこと、僕らをつないでくれた亡き友人の話……。夜が更けるにつれ、話は心の奥の奥の方にある思いへ移っていった。布団の上に倒れ込むまで、僕らは語り合った。


 二十歳そこそこの僕らがする話は、何かにつけ世間知らずの青臭い話が多かったかもしれない。友人のご両親は、そんな僕らの話を喜んで受け入れてくれ、笑い、語り、涙し、同じように布団の上に倒れ込んだ。
 大き目のちゃぶ台と酒と僕ら以外には何もない。世間も時間も立ち入れない。そんな時間が僕は好きだった。

 

 「20代は好きなことやっててええやろ。30で定職に就ければええじゃない」

 そんな言葉だったと思う。友人のお父さんが何気なく口にした一言が、僕には強く残った。
東京の大学に入って2年目の夏のことだった、と記憶している。

(2)第一歩はみちのくから

アンカー(2)
電車の駅

 大学2年の夏の終わりに友人と2人、鈍行列車で東北を周る旅をした。5日間の短い旅だったが、列車時刻表だけを頼りに、その日のことはその日に決めていく毎日を「おもしろい」と思った。どこで列車を降りるか、何をするか、どの宿に泊まるか。すべては行ってから始まる。それまで家族旅行しかしたことがなかった僕は、予め何も決めておかない旅というものが世の中にあることを、驚きとともに知った。

 2度目の旅はひとりだった。11月の初め、また東北に向かった。
 夜半に着いた宮城県の女川で、泊まれる宿がなかなか見つからず、歩き回った。夜中にひとりで宿を探していると家出か事件絡みかと思われて警戒される、と後になって知った。
 東北の港町。晩秋の風は冷たかった。闇に沈んだ海のそばにある、小さな民宿にようやく泊めてもらえた。夜の9時近くになっていたが、僕はまだ何も食べていなかった。腹をすかせた僕に、宿の老夫婦が出してくれた夕食、インスタント麺と塩味の強い漬物とあったかいご飯の味は、今もはっきりと思い出せる。


 路線図だけを頼りに旅を進めた。福島県内の山あいの駅からバスに乗り換え、小さな温泉郷にたどり着いた。紅葉を終えたばかりの山々を見ながら、のんびりと湯につかった。ひとり旅ってのもいいもんだな、と思った。

 その年の暮れに、姉とふたりでタイを旅行した。僕にとって、実質初めての海外旅行だった。姉は現地で働いている友達と過ごす時間が多かったので、僕はひとりバンコクの町を歩き回った。
 2日目の夜、ムエタイの試合を観戦し終えてスタジアムを出た。僕は異国の夜にひとり投げ出された心細さと、それを上回る底なしの解放感に身震いした。
 日本を出る直前に患った腎臓結石をバンコクで再発させて、ひと騒動起こした旅だったが、この旅をきっかけに僕はアジアの空気に惹かれ始めた。

 タイから帰国後はアルバイトの日数を増やし、お金を貯めた。「留学しよう」と思ったのだ。行き先はアジアのどこか。よく知らないからどこでもよかった。とにかく、人の熱気が町ごと瓶詰めされたような、あのアジアの空気感の中に自分の身を置いてみたかった。戦争のことには関心があったので、ベトナムにピンと来た。
 よし、ベトナムへ行こう。
 大学の語学機関で「ベトナム語初級」という講座を受け、あいさつぐらいはできるようにして、翌年ベトナムへ発った。

アンカー(3)

​(3)ベトナムではまる

バックパッカー

 ベトナムでの日々は刺激的だった。朝の2時間だけベトナム語の授業を受け、残りの時間はどこで何をしていてもよかった。僕は、友達になったベトナム人と、日本語・ベトナム語を教え合って時を過ごすことが多かった。それでもたっぷり時間は余ったが、使えるお金は限られていた。暇な時間は近くの庶民街をぶらついたり、小さな路上カフェでぼんやりしたりして過ごした。
 自分とはまったくちがう価値観で日々を過ごすベトナムの人たちの暮らしに僕は戸惑い、そして惹き込まれた。旅人、留学生、駐在員、移住者など、様々な理由で自分の国を離れている人たちとの出会いも新鮮で、僕の好奇心を掻き立てた。東京のキャンパスとはまったく異質な空間だった。

 バックパッカーという言葉を知ったのはこの頃だ。
 ホーチミン市中心部の僕の下宿先は、バックパッカーがよく利用する安宿街にあった。近くにうまいフルーツシェイク屋があり、大の果物好きの僕はよくそこへ通った。店には世界各国からバックパッカーが集っていた。
 旅のことなど何も知らない僕は、彼らの話を聞いて、「えっ、1年も旅して周るの? 宿の予約は? ビザは取れるの? 航空券は? 何語でしゃべるの?」と大いに驚いた。海外を予約なしで旅する人がいるなんて、すごい。すごすぎる。僕もやってみたい。行ってみようかな。


 ベトナム留学の最後の2ヶ月を使って、僕は初めてのバックパッカー旅行に出ることにした。現地にある各国の大使館でビザを発給してもらうこと、自分の足で国境を越えていくこと、バスで乗り合わせた同じような旅人と出会い、話し、時には数日を一緒に過ごすこと。どれも新鮮で、快感を伴った。そうした作業や行為を自分ひとりでやって進むことそのものが、景勝地や名跡を周ってフィルムに収めるよりも何倍も楽しかった。

 1年間の留学を終えて日本に帰ると、仲間たちは卒業を目前に控えていた。やがて桜の季節が来て、彼らはキャンパスを去り、それぞれの新しい暮らしへ旅立っていった。

 僕は、休学していた1年分の授業と卒業論文のため、キャンパスに残った。気持ちの半分は卒業後の進路のことを模索しながら、もう半分は次なる旅の計画に心躍らせながら、1年間を過ごした。その年は、モンゴルやミャンマー、バングラディシュを旅した。
 無事卒業論文を書き上げ、1年遅れで僕は大学を卒業した。卒業後は別の大学の大学院へ進むことに決め、実家のある広島へ戻った。

アンカー(4)

​(4)ニューオリンズのそよ風

バンジョープレーヤー

 大学院修了を目前に控えた年の2月、僕は1ヶ月半のアメリカ旅行をした。4月の就職に備えてシカゴで3週間英語研修に通う、というのがアメリカ行きの名目だった。

 だが、本当のところは少しちがった。仕事が始まれば次にいつ長旅ができるかわからない。その前に好きなブルースを本場でたっぷり聴いてみたい、というのが一番の動機だった。アメリカはまだ同時多発テロの衝撃が醒めあらぬ頃だった。

 ニューヨーク、シカゴ、ニューオリンズ、メンフィス。ブルースにゆかりのある街を、飛行機とグレイハウンドを使って周った。バー、ライブハウス、アスファルトの路上。街の至るところに音楽が溢れていた。
 中でもニューオリンズの路上ミュージシャンの姿は、僕の心に強く焼きついた。
 使い込んで色褪せた生ギター、かすれた音のアコーディオン、バケツと竿とロープ1本で作った簡易ウッドベース、壊れて出ない音だらけのブルースハープ。身体の底から搾り出された声が、無限の空間に解き放たれ、ニューオリンズの空に響き渡っていた。

 金を持っていそうなミュージシャンは皆無だった。彼らの、全身で音楽を楽しみながら、合間に見せるふとした寂し気な表情が、僕は好きだった。
 毎日毎日、僕はフレンチクウォーター近くの路上で、彼らの音楽を聴いた。
 人間どうやったって生きていける。こんな時間をできるだけたくさん重ねていけたらいいなぁ、と思った。それならば……。

アンカー(5)

​(5)アメリカ帰りのひと騒動

ビジネスマン

 アメリカ周遊の旅を終え、サンフランシスコを経由して関西空港へ向かう飛行機の中で、僕は決めた。就職内定をもらっていた放送局へ入らないと―。


 広島に戻るとすぐ、人事担当者に内定辞退の電話を入れた。内定式は数日先に迫っていた。
 「どういうことだ? とにかく今すぐ社へ来なさい」。低く重たい声で言われた。4月からは東京での新人研修を受けるつもりで、スーツ類は東京に送ってしまっていた。親父のスーツを引っ張り出し、広島市内にある放送局のビルへ出向いた。

 人事担当の男性2人と、オフィスの一室で向き合った。だぼついたスーツを身に着けた僕がした話は、気持ちばかりが先行し、「内定辞退」を説明するような理にかなう話ではなかったと思う。
 しかし、僕の気持ちは決まっていた。
 「そんな勝手なことは、社会では通用しないよ。どれだけ周りに迷惑をかけるかわかってるの?」

 その通りだった。組織の一員として僕を受け入れてくれる準備を進めていた人、この会社に入りたくても入れなかった人、広島と東京を行き来する就職活動をサポートしてくれた両親……。全員に「すみません」と言うしかなかった。
 「でも、これは君の人生だ。君が決めたのなら仕方ない。ここから先は私には何も言えない。がんばりなさい」
 長い話し合いの最後にもらった言葉を、僕は折に触れて思い出す。

アンカー(終)

​(終)再びの上京、そして旅立ち

クルーズ船

 放送局の内定を辞退し、再び東京に出て行ったものの、仕事の当てがあるはずもない。大学生の弟の部屋に転がり込み、2週間ほどそこで過ごした。
 ある日、小さな出版社の社長に拾ってもらい、そこで1年間使ってもらえることになった。「それから先はその時考えればいい」と社長は言ってくれた。その出版社は、ベトナムで知り合った友人の縁で、学生時代にライターのアルバイトをしたことがあった。

 出版社での仕事は、勉強になることが多かった。出版業界、いや、社会の右も左もわからない若造に、社長はいろいろな場面を経験させてくれた。原稿の依頼や催促、ネタ調べ、取材、編集作業、お金の出し入れ、取引先との付き合い、パーティーや講演会の段取り、機器の購入、オフィスの掃除……。何でもやった。出会う人すべてがお手本で、みんなが「すごい人」に見えた。取材行のために車を駆り、宮城から九州まで日本各地を走り回った。オフィスや駐車場の車内に泊り込む日が続き、給料も15万円に届かなかったが、それ自体はさして苦でなかった。


 あっという間に、当初の区切りであった1年間が過ぎた。僕は27歳になろうとしていた。僕はこれからどこへ向かおうとしているのだろう。「20代のうちは好きなこと」は、もう思い残すことはない?
 いや、もうひとつ残っていた。ずっとあこがれていた「長い放浪の旅に出る」ということが、具体的なかたちと欲求を伴って、僕の頭に描かれ始めた。考えた末に出版社を辞め、東京都内で清掃員とフィルム現像のアルバイトを掛け持ちすることで、旅の資金を貯め始めた。

 1年ほどでお金の目処も立ち始め、旅に向けて気持ちも弾んできた。好きな夏の間に出発することに決め、準備を進めた。
 準備は楽しかった。部屋の荷物を整理し、処分するのも気持ちよかった。準備も整い、友達と飲みに行ったり、仲間が開いてくれた壮行会に出たりしているうちに、あっという間に出発の日がやってきた。

 6月末の蒸し暑い日の夕方。大き目のザックと三線を肩に、僕は晴海ふ頭から沖縄行きのフェリーに乗り込んだ。

 午後7時に出航するはずだった船は、9時を過ぎても動き出す気配はなかった。船内の風呂に入り、ガラス窓から見える港の景色をしばらく眺めた。船にコンテナを積んでいる作業員たちを、大きな白い照明が煌煌と照らしていた。
 (帰ってくる時には、おれはもうひとつ歳を重ねているんだなぁ。ずいぶん悠長な話だなぁ)
 午後10時前。3時間遅れで、のっそりと船体が動き始めた。
 (まあ誰に頼まれたわけでもない、自分で決めた出発だ。思う存分感じてこよう)
 ようやくコンテナの積載を終えて港を出ていくフェリーの大部屋で横になりながら、僕はそんなことを思っていた。​(終わり)

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